板碑(板石塔婆)調査報告書
今年正月三日のウォーキング中に偶然発見し 以降 関係各位と連携しながら 単独でダンプ3台分の残土山を発掘調査し採取した78点にも及ぶ「板碑」の調査報告書が市教育委員会で纏った。
先日 お呼び出しを受け調整を計った博物館長宛分(川越市立)と共に頂戴した。
バランスシート崩壊している市なので簡素な仕上がりだが正式報告書である。(よそのお世話になった機関の長に手渡しする身にもなってほしいものだが)
しかし2点異議がある。
1.調査した機関の明記が無い報告書は如何なものか?
市教育委員会 部署 責任者 製作者 担当者・・・
2.調査不十分な板碑がある。
No.2とNo.5 の板碑だ。
No.2は「阿弥陀三尊」の板碑であるが右の脇時種子の標記が無い。
拓本でも明らかだ。
問題の右の脇時である。
現物写真でも確認できる。
阿弥陀三尊は全てがこの配列である。
この標記では不十分である。
No.5は
これは「貞和」年間の板碑だ。「貞和」は1345年〜1349年の5年間で 報告書もそのまま記してあります。
しかし割れた部分の下部中央 「貞和」に続いて中央天から右下に下る文字の書き出しが はっきり確認できる。拓本でも確認できるが 現物はもっと明らかだ。
中央の割れているところです 僅かに見えますか?
これが手掛かりです。
「貞和」は 1345年 貞和元年 乙酉(きのと・とり)
1346年 二 丙戌(ひのえ・いぬ)
1347年 三 丁亥(ひのと・い)
1348年 四 戊子(つちのえ・ね)
1349年 五 己丑(つちのと・うし)
です。 この内の「戊」の頭です。
この頃は「十干十二支」で「年」を記しました。
だから 「1348年 貞和四年」の板碑です。
板碑はご存知の通り中世の供養塔です。中世という時代は 残る史料が少ないのです。まして民間人のそれは極端なのです。ですからこのように僅かなメッセージでも しっかり受け止めるべきです。
再調査を申し出たら2週間以上かかるそうです。連休もあるし 猛暑だしねえ。