「山椒は小粒でも

ピリリッと辛い。」
この言葉は 絶えず体内の何処かに存在しています。
僅か0.5mmの黒曜石片(粒?)からとんでもない事実が明らかになって行く事など 日常茶飯事 と言っても良いくらいなのです。



60*60*14(mm)角がRに欠けた方形の緑泥片岩(りょうくでいへんがん)です。若宮遺跡の西側(市の指定からは20mほど外れる)の畑から採取しました。赤土に塗れていて 板碑の破片であることは判断できても それ以上の事は解りませんでした。しかし洗浄してみると薬研彫りの痕跡が僅かに残っています。
主尊種子キリーク(阿彌他如来)の左下の一部であることが判明しました。

これがそのキリーク正体文字です。
ラフなメモスケッチで示すと

この部分です。
裏面は多少の剥離部はあるもののオリジナルのままに近いようです。
さてここからが問題です。
まず薬研彫りの出来不出来や仕上げの程度で石工の特定が出来るか。
原材料の質や板厚で年代を同定出来るか。などと設問を作りながら検証してゆくわけです。

現在までに判明したことは
①外寸 地上高 300mm+−5mm 上幅 150mm+−10mm
 下幅 155mm+−5mm
②年代推定
 この規模の板碑は1%ほど存在しています。つまり100枚あればその内1枚はあると言う割合です。周辺地域を含めて最小は地上高270mm(板厚19mm)です。川越市山田浄国寺の元弘二年(1332年)のものです。県内最小 は行田市の220mm(板厚18mm)で 永仁元年 (1293年)です。板厚の14mmという板碑は1330年代頃から出現しはじめ 民間信仰と共に最盛期過ぎ頃までを中心に出現します。
③付近から最大でも130mm程度の破片が20枚採取されている。また隣のM氏邸裏に市の台帳にない小型の板碑が建ててありました。寺域ではあるが墓場ではありません。昔「石板塔婆」と呼ばれていたがこれはけして「塔婆」ではなく「板碑」と呼ぶのが適当でしょう
④石工は東方川越を中心に活躍した系統に属すると思います。

まだ分析は始まったばかりですがこの位までは判明しました。