山椒は小粒でもー2

Hatena10th


「擂鉢(すりばち)」の破片です。45*48・15mmの極小なこの一片から情報を読んでみましょう。
先ず表採(地表面からの採取)位置から記しますと巾着田の北 日向地区と元宿地区の境に日和田山の材木を搬出した途があり 出口から50m逆登った地点です。鹿台(ろくだい)遺跡(縄文時代)の北端 東に小さな谷(現在は切通しされて高麗神社に向かうカワセミ通り)を挟んで上ノ原遺跡(縄文時代)があります。日和田山の南裾端に位置します。

この位置から日和田山の森が始まり 3ヶ所のテーブル状の平地にした50坪ほどの敷地が確認されます。東側は現在 登山者の休息場所にしつらわていてベンチやトイレ等の設備があります。登山道がここからスタートしています。


江戸初期の墓碑や石碑が残り纏められたのでしょうか?左端の墓碑は

住職のものですね。明らかに寺院の跡でしょうね。
話を元に戻しましょう。「擂鉢」は寺院が使用していました。胡麻を摺ったり 大豆を潰したのです。僧侶の食事に必須の道具なのです。
今調査中の若宮遺跡(高麗郡建郡時の女影廃寺跡)からも大量に採取されています その一部を

これはほんの一部です。


この地は堀口本家(出雲族 葛氏またはその同族)の館のあった所です。江戸期の中期少し前にこの辺りは大火に見舞われ 焼け野原ときしました。それを機に堀口本家は東へ1kmの県道沿いの現在地に移転しました。屋敷神社は東の現在地に移転し地元人に託したのでしょう。その時の建造した拝殿が現在も残っている訳でしょうね。「九万八千神社」というネーミングも拝殿の建造物にも深く出雲族の影を埋め込みつつ 天皇家には疑われないように十分すぎる配慮が行き届いています。堀口本家が関わっているものと推察します。
一方 寺院は土地の長老などの情報通り ここから北東1.5kmの地に移されたのでしょう。現在は聖天院と名を変え宗旨も真言宗智山派に変え高麗王の菩提寺となりその恩恵に与かっています。
室町時代という正門は謎につつまれます。どのような変遷があるのでしょうか?私の研究分野から大きく悦脱しますのでこの辺で止しますが興味のある方は極めるのも一興かと存じます。