お千代さんの「児」


ここは高岡地区 小さな川(清流川)を渡れば清流地区。北へ清流川に沿い400m行くと川の西岸の途と合流し 更に北へ「高岡廃寺」を過ぎつづら折の山道を越え 「大寺廃寺」を通り 毛呂山町へそして越生 小川 寄居を通り高崎に通じる「東山道」と言う古代からの重要な古道だ。
近代 渋沢栄一がここを通り八王子から横浜に向かった事も記録されています。


「お千代さん」に纏わる江戸期の民話が残る。


金子家に女中奉公していたお千代さんが身籠ってしまった。
主人からはひどく叱責され 暇を出されてしまった。
しかしお千代さんは それでもガンとして聞き入れず 実家に戻らず「産む」といって居続ける。
お腹はどんどん大きくなるのは自然の摂理 臨月はもう間近か。
思い余ってお千代さんは 樹に首を吊ってしまった。

以来ここを通る者に お千代さんが現れ「オレの子供ッ 受け取れ!」と言って上から投げつけ怪我を負わせることが続いた。

ある日の夕方 暮れなずむ頃 徳の高い旅の僧侶がここにさしかかった。
やはりお千代さんは姿を現し「オレの子供ッ 受け取れ!」と投げつけようとする。
僧侶はとっさに 着けている袈裟の裾を広げ
「ここにっ」と叫んだ。

どーーっと投げつける。
僧侶はこれをやっとの思いで受け止めた。
袈裟を開いて確かめてみると頭ほどの丸い石だった。
僧侶は村人に事情を聞いて哀れに思いこの丸い石を宿に持ち帰り懇ろに供養した。

それ以来 お千代さんは二度と姿を現さなくなったそうです。


概略このような民話です。語る人により微妙に違うストーリーもありますが 大方このようなものです。金子家は豪族でした。現在は墓所を残したまま移転しました。
その丸い石が この地に残されていました。聖天院の先々代の住職がその丸い石を供養して祠を造り保存すると言って 寺に持ち帰ったのです。普通はこのような事は住民の方を呼んで行うものですがそれをしていないのでしょう。あの寺はこのように少し「上目線」傾向が目立ちます。
その「丸い石」を捜索する役を私が仰せ付かったわけです。ハイ!

仰せつけた張本人はここの前に墓所と菜園をやっている丘登(おかのぼり)さん。現在はお隣 飯能市に住居を移しましたが 丘登本家筋です。分家は1軒この地に居られます。金子家とは遠からぬ縁があり 墓所日野家と共に管理しておられます。
捜索は調べに調べて解らず 寺側にも3年前に調査依頼しましたが この宿題には未だに応えていません。


境界からの高岡地区のヴュー。

同じく清流地区

間に立つ弁天様(?)の碑(天保二年)

「お千代さん」には後日談がございます。それはまたの機会に。