高岡窯跡(たかおか・ようせき)


ここに登り窯があった。このあたりだけ僅か1基だけの発掘調査が昭和の中頃行われた。登り窯は8基程度あったのではないかと考えます。だからあと7基は未だ眠っている(?)
窯の創設は7世紀初頭 東金子と殆ど同じ時期に 同じ族の「金(キム・コム)氏」が運営したであろう。九州王朝 出雲王朝の系統で高岡寺(廃寺)大寺(廃寺) 多分 勝呂寺(廃寺)などに供給し 上ノ原遺跡からも四片の布目瓦 多数の須恵器片が表採で確認されたから 小規模な寺のものを手掛けたかもしれない。


そして世は大きな変化をする。
白村江の戦いで九州王朝が滅び 壬申の乱で王権が扶桑国にわたり大和王朝となる。
716年この地に高句麗人による高麗郡が設置される。

王族の肖奈福信(しょうな・ふくしん 他が次々失脚するなか最終は従三位右大臣空席の左大臣まで昇る)と共に朝廷に召された丘登氏が山階(山科)で8年間 布目瓦をはじめ須恵器の技術を身につけて高麗郡に帰った。
金氏のこの高岡窯に合流し(実権が大和朝廷に移る)「長(おさ)」として腕を振るったのではないか。女影寺(廃寺)やそのほかの寺 郡の建物 高麗王の館や役人の館 そして生活器として様々な須恵器をしつらえた。北方の南比企丘陵の窯がスタートする時も技術的な援助は高岡窯も影響しただろう。




およそ1寸の厚みのある布目瓦である(実測33mm)。おそらく武蔵国の中心地 府中の国分寺(現在は再建)向けの瓦でしょう。


先日も地主の金井(元 キム氏)さんは不在だったが1時間ほど分布調査を行った。
20点を越える異物が採取された。布目瓦 須恵器などです。僅か20余点だが分析の結果 3点が重大な遺物であった。
早速 市の教育委員会へ出頭した。許可が得られればUP致しましょう。