「お赤飯」が結ぶ“縁(えにし)”

埼玉県指定遺跡「大寺廃寺」は日高市の北縁部の大字山根小字下大寺にあり 一部毛呂山町大字葛貫(くずぬき)小字袋が沢に跨っている。地主は旧家荻野家で3間・4間の礎石が露呈している部位を管理保全しておられ市の名跡になっています。遺跡は一部を除き発掘調査は終了しており報告書も纏っています。小さな谷を挟んで西に小字上大寺がありそこも旧家である紫籐家の土地です。

PHOTOは私の家に代々伝わる11月1日朝に用意する「祀赤飯」です。1日から祭が始まり3日が本祭だった名残です。明治初期に神仏分離令により寺院のみになりましたが 宅内神社として出雲熊野神社が祀られおりそこに具えます。
紫籐家も3日に同じような「お赤飯」を炊きます。紫籐家の大奥様に炊く理由を伺うと ただ「まつりだから。」というお答えしか戻ってきません。「何処のおまつりですか?」と伺っても「?????」なのです。私が「11月3日は毛呂山町の出雲伊波比神社の本祭で流鏑馬が奉納されるのですよ。」とお伝えすると ご主人から「昔 親父に良く連れて行ってもらった。」とのお返事がかえってまいりました。出雲伊波比神社は紫籐家が代々宮司を勤めております。同じ一族であった筈です。出雲伊波比神社の周りにも紫籐姓は多いのです。「出雲」で“縁”が繋がったのは「お赤飯」であったのです。姓の「紫籐」は出雲王国が崇神に襲撃され大国主命と共に北方に逃れた籐氏の一族と思われます。「藤原氏」などと同じ一族でしょう。
荻野家も3日に「お赤飯」を用意します。紫籐家とは親戚関係があるようで仲がよいのです。両家とも周辺に広大な土地を有する旧家です。明治時代まで紫籐家の周りが荻野家の畑で 荻野家の周りが紫籐家の畑だったらしいのです。これを総取替えをして現在に至ったのです。


【あずき・ちしき】
五〜六世紀 大和王国に合流した騎馬民族(現天皇家)の崇神(第10代天皇日本書紀には記されています)は出雲王朝の大国主命に「この地を治めるのは我々が相応しい」と譲国を迫ります。紀に言う「国譲りの神話」です。交渉が整わず襲撃し大国主命を殺し出雲王国を乗っとります。が、実は大国主命は危うく北に逃れました。この時同行したのが「物部氏」「籐氏」「葛氏」その他 諸氏です。山ずたいに奥へ奥へと逃れました。常陸太田まで逃れます。前線見張り基地に千葉県佐原 小見川辺りに「物部氏」「籐氏の一部」が山奥に張ります。日高 毛呂山辺りに「籐氏の一部」「葛氏」が前線見張りに就いたと考えます。大和王国は追手を出すが成功せず 崇神常陸太田に篭った大国主命を艦船から砲撃したりして追い出します。当時は付近まで海だったようです。大国主命は小見川へ逃れますが大和王国に寝返った「物部氏」「籐氏の一部(後の藤原氏)」も加わった大和に滅消されることになります。大和はこの後千年にわたり残党を追い続けます。記紀にある「蝦夷征伐」がそれです。残党は山奥へと分け入り生存しました。
寝返った「物部氏」と「籐氏」は大和へ上ります。「物部氏」は神事を「忌部(いんべ)氏」に替わり司り のち「石ノ上(いそのかみ)氏」となり失脚。「一部の籐氏」は「藤原氏」になります。「藤原三系統」の一派です。