秘仏中の“秘仏”

文化の日記念 「救世観音像」は11月22日まで公開中です。

秘仏といえば 何と言っても法隆寺夢殿の「救世観音像」の右に出るものはありません。

いまにも 話し掛けてこられるように感じます。

1884年 フェノロサ岡倉天心は我が国の美術品の調査をしており 法隆寺に入ります。「祟り」を楯に必死の抵抗も適わずご開帳となりました。法隆寺の僧達は祟りを恐れて逃げ出したという話も伝わります。この像は九州王朝(筑紫)から移設された上宮王(かちのみや)をモデルにし樟(くすのき)の一本創りです。591年から上宮王(多利思比古・たりしひこ)の治世が始まります。筑紫 紫宸殿の東に観世音寺創建が始まり 607年ごろこの「上宮王像(救世観音像)」と次の「王后像(百済観音像)」が創られ 金堂本尊 薬師如来像の脇時となりました。上宮王は南宋百済と密接な関係を持ち都督府として国際的な外交や貿易も行っています。南朝が隋に平定され統一されるや「日本」の国号を発し「天皇」の地位を確立します。「憲法」も作り官位も制定し完全に独立国となります。そこで隋に使者を送りあの「国書」を持参させました。現在も「秘仏」で4月11日〜5月18日と10月22日〜11月22日の年2回だけご開帳となります。鞍作り止利の作と考えます。(世界基準で☆3)

親しみやすさと 優しさを兼ね備えておられます。

百済観音像」です。この名が初見されるのは江戸期です。名付けた方は事情を良く知る方と思われる程 ぴったりです。
上宮王の后です。干食王后(かんじき)像です。同じ樟一本創りです。百済の姫君です。663年 薩野馬(さちやめ)が白村江で唐・新羅連合軍に大敗しますが 戦いに挑んだのは一にかかって百済国救済のみならず 母君の母国救済の意味もあったのです。 山口大口費(やまぐち・おおぐちのつやし または おおぐちのあたい)作です。(世界基準☆5)

法隆寺金堂の釈迦三尊像 上宮王と王后の病に対し平養を願い造像され623年に出来上がったが 二人はその前年に薨去してしまいます。現在 本尊とされていますが元々その立場ではありません。鞍作り止利の作。(世界基準☆3)

金堂の本尊はこちらの薬師如来像です。鞍作り止利の作。(世界基準☆3)

【あずき・ちしき】
■「法隆寺の移築」
  663年 白村江の戦いで九州王朝は大敗 王(天皇と思われる)薩野馬 唐の捕虜となる。
  663年〜683年頃まで 唐・新羅軍が筑紫に駐留する。(約20年)
  667年 近江大津宮に遷都
  668年 天智天皇即位
  671年 天智天皇崩ず。
  672年 壬申の乱
  673年 天武天皇即位 飛鳥浄御原宮
  683年 この頃 唐・新羅軍の筑紫駐留は解かれた。

       20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に        積み上げられて置かれた。地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。

  710年頃 「法隆寺」完成。平城京遷都 遣唐使派遣(唐は都督府構想を止む)
■ 「日出(ヒ・イ)ヅル処ノ天子 書ヲ日没スル処ノ天子ニ致ス 恙(ツツ)ガナキヤ」
  どなたもご存知の国書です。
   中国の「随書」の大業三年(607年)三月の項に次の記載がある。
   「倭王(わおう)多利思比孤(たりしひこ)入貢(にゅうこう)し 帝に書を遣(おく)りて曰く「日   出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」と。帝 之を観て    悦ばず 鴻臚卿(こうろけい)に謂(い)って曰く 「蛮夷(ばんい)の書の無礼なるは 復(ま)た  以(も)って聞(ぶん)する勿(なか)れ」と。
  日本書紀では聖徳太子が送ったとありますが 太子(皇太子)がどうあれ いやしくも「国書」  を皇太子が扱えるものではありません。まして聖徳太子は実在の証拠がありません。この    「国書」は九州王朝の上宮王(かちのみや・多利思比古)が隋の煬帝(ようだい)に送った    「国書」です。そもそも日本書紀には隋の記載がない 隋という国の存在が無いのです。 
■「源氏物語」と「九州王朝」(米田良三氏の見解・九州移転後の重要検証事項)
  主人公 光源氏の年齢に600を加えると西暦実年となる。つまり光源氏が1歳の時は
  601年となる。
  618年(光源氏18歳)「紅葉賀」に行く。(九州王朝) 観世音寺落成祝賀(紅葉賀)
  622年(光源氏22歳)桐壺帝譲位。(九州王朝)上宮王薨去
  「長谷観音」に参るのは 九州の「長谷観音」である。
 

  さてそこで大きな疑問が湧き出ます。それは「源氏物語」の作者が紫式部であるという前提でのことですが なぜ「日本書紀」の編纂により消滅された九州王朝のことを書けたのかという疑問です。大和朝廷は「日本書紀」を編纂すると 各国に「風土記」を新しい「日本書紀」に沿って書き直しを命じます。九州王朝の史料は焚書(ほうしょ)します。つまり「九州王朝」を国是として消し去ったのに大和朝廷の内部(官位を持つ者)が その存在を仄めかす物語を「公」に出来たのかです。しかも今日に「名著」としての地位が確立している根拠が解りません。
つまり学校の教育に歴史では「日本書紀」を正史とし授業を行い 国語(文学)では「源氏物語」を教材にしているちぐはぐな行政はなんなのか。