「お捻り餅」のご縁(5円硬貨)と「黒柿」の種子

先の流鏑馬まつりで本陣と馬場で撒いた「お捻り餅」と呼ぶ由縁はこれです。

大量に撒かれるのですが そのなかに幾つかに「ご縁(5円)」がお捻りになっています。
その幸運に恵まれたのです。この幸運を掴んだものは神棚に供え その後 紐を結んでお財布に入れ「幸運の種銭」に致します。何か良いことが起こるかも。

この姿でお財布に入ります。


「種」つながりで「黒柿」の「種」がとれました。

これを春に蒔いて はたして「新芽」が出ましたらご報告いたしましょう。
このBLOGをお読みになられた方にも「きっと幸運が」舞い込みますよ。
お楽しみに。


【あずき・ちしき】
11月6日(日)午前9:00 再放送11月13日(日)20:00
NHK Eテレ日曜美術館」にて「第63回正倉院展」が取り上げられます。お時間の許す方はどうぞご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/1106/index.html

■「正倉院」は校倉造(あぜくらつくり)の倉庫です。単なる倉庫ではないのは 国を代表する宝物が保管されているのです。その宝物は756年 聖武天皇薨去しその四十九日(七七忌)に天皇の宝物などを皇后が東大寺大仏に奉納したものです。永年東大寺正倉院に管理保持してきたが明治維新後 宮内省の管理下にされ管理者が一部変更されたが現在は宮内庁の管理下にあります。

□宝物の大半は「九州王朝の宝物」であると考えています。おそらく白村江戦後 大和に移された宝物でしょう。「正倉院」の建造物も移築されたものでしょう。この見地で正倉院の御物を観ると九州王朝の外交の巧みさや交易の広大さを覗われ 且つ御物への造詣も深まりますよ。

■先般野田総理が韓国に訪問した際 韓国首相に「古文書」を返還されました。その時一言付けて返還して欲しいものだと思いました。「我が国からも宝物が迷子になっておるようですので その節は御返還願いたい。」と。

■白村江戦後 唐軍 新羅軍の駐留されるや九州王朝の文化が破壊され多くの持ち出しが行われました。また恐れをなして逃げ帰った者もいます。判明している中に鞍造り止利の工房人が宝物を持ち出しました。韓国某国営博物館蔵の「鳳の飾り」は法隆寺金堂釈迦三尊像の天蓋の飾り物の一部です。旧新羅地域から出土の「蝋燭芯鋏」や「螺鈿鏡」 そして法隆寺五重塔の舎利容器と酷似している「瑠璃杯」「その容器」など多種にわたります。中国・台湾の故宮博物館蔵のなかにも検証する必要があるものが存在します。

□新技術は全て中国・朝鮮から我が国に導入されたわけではありません。大和国だけを視野にした歴史観では大きな錯誤がありましょう。仏教はインドや中国から複合的に導入されたようですし533年の百済王から仏教導入は大和国に限った事実で 仏教用語の多くは中国の「呉」の国の「呉音」読みが多いのです。仏教はインドと南朝(中国)から九州王朝に そして百済国に という可能性は十分に考慮されます。

天武天皇の時 インドから数人の使者(?)が大和朝廷に来ました。目的などは記録にないので不明です。もっと不思議なのは婦人をひとり川原寺(廃寺)に残し「必ず迎えに参ります」と約して帰国しますが 迎えはなく一人残った婦人は川原寺で生涯を閉じます。川原寺は飛鳥京三大寺のひとつで官寺 天武天皇が多く国事をここで行った寺です。しかし平城京遷都に際し多くの寺が平城京に移る中 現地に残り挙句は廃寺に。なぜ(?)。川原寺の金堂の礎石は「瑠璃石(実際は大理石)」で24個が現地に残されていますし 軒丸瓦は「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」(国宝級)で金堂壁面は「阿彌他(陀)三尊」の塼仏(せんぶつ)千枚以上で飾られておりました。観世音寺の建物を川原寺に移築し中身(仏像など)は法隆寺に入れたのではないかと考えています。廃寺は壊され近くの山肌に穴を掘って遺物が埋められていました。まるで隠す(?)ように。川原寺廃寺跡は飛鳥板葺宮跡の西方400mにあります。現在「弘福寺」が建てられております。軒丸瓦は明日香民族資料館に展示されているはずです。「センブツ」もあったかと記憶しています。殆どは発掘した関西大学にあります。