高麗王


高麗神社「一の鳥居」です。
神社の所在地は
{日高市大字新堀833番地 ℡042−989−1403 WEBSITEもあります。}です。
天武朝 元正天皇により716年5月16日従五位下高麗王が郡司となり七国の1799人の高句麗人を集め武蔵国のこの地に建郡しました。

「二の鳥居」です。
高麗王は続日本記によれば
*666年10月26日 高句麗国は大使・副使と共に「二位玄武若光」らを遣わし朝廷に調を献進する。とあります。周辺情勢はどのようになっていたかと言えば 朝鮮半島は北から高句麗 新羅 百済 の三国時代でしたが 中国の「唐」に新羅が接近し連合軍を形成し既に3年前の663年 百済国が滅亡しゲリラ戦が続いていた時代で 同年9月に「白村江の戦い」で日本軍は全滅し王は唐に捕虜として連行されています。これにより唐軍(新羅軍も含むかも)は664年5月から672年5月まで太宰府(日本国)を占領しています。その最中の「調の献進」ですから議題は援軍の一事の筈です。当時 大和は扶桑国と呼ばれ中大兄(崩後天智天皇と諡名された)の時代です。中大兄(with大海人?)は白村江の戦いに参戦の約束を守らず 二万とも三万とも言われる軍を率い 遅れて九州まで進軍するが母親の死亡を理由に引き返す。正しく参戦していたら世界は違った道に進んでいただろう。幸か不幸か大和は無傷だった。
*667年大反対を押し切り近江に移る。
*668年高句麗国 唐 新羅連合軍に滅びる。

若光らは帰国の機を失います。


中門です。拝殿(本殿)域が異常に狭く人間一人が歩ける間で回廊と言うより塀が廻らされているに過ぎません。これは創建後に幾度かの継ぎ足し広角化が図られたものと考えられます。

中門から10mあるかないかです。ここで秋には獅子舞が行われます。三連獅子と連中が十人前後 それに観客とで何をやっているのかしっちゃかめっちゃか状態です。この行事も後追い付け行事です。江戸期以降 或るいは昭和になってから近在の神社に習ったかもしれません。

回廊と言うか通路ですかね。

高麗家旧住居です。重文ですが江戸期初頭と言ってます。が「?」です。

高麗神社は勿論高麗王を祀っている神社です。墓は西南350mの「聖天院」の入り口付近にあります。

無論ここには高麗王の遺骨は

ありません。
高麗神社の直ぐ西の山の上に「廟」と称するもの そして俄か作りの「塚」が子供騙しにございますが そこにもありません。何処にあるのか解りません。この市は肝心なものは全てわかりません。高麗王の「遺骨の所在」を始め 「高麗王の館」(何箇所かの噂はある) 肝心の「高麗郡の群衙(ぐんが・役所)」 群寺「女影廃寺」の位置 そこに使用されたとする「八葉複弁蓮華文軒丸瓦」「重弧文軒平瓦」 この二つの瓦は わざわざ時の朝廷が使用を許しより親密な関係の「証」となります。紛失しています。瓦は現在私が追い求めています。手懸りは掴みました。大宰府への移動前に解決すればラッキー   です。曲りなりにも6年間高麗王を通し「天武朝廷 取り分け天武天皇」を裏側から「観る」ために 滞在させて頂いたお礼のつもりですから お受け取りください。


前項で年代表を示しています。明日はお隣「聖天院」を中途半端に触れさせていただきます。例の「予告先発」です。