古道を訪う-〈2.清流続編〉


清流地区の北域にある「庚申塔」です。建立が「□化二年三月」 □部分は剥落があり文字が確と特定出来ません。石質石灰岩の状態から推定すれば江戸期の「文化」か「弘化」年間かも知れない。十干十二支は「乙巳(きのと・み)」だから「弘化二年三月」1844年です。解ってみるとそのように見えます。埼玉県でも白眉の石造物ですよ。
この石碑の傍に旧家「日野家」が現在もお住まいで 裏山を登り詰めた処に「高岡寺(廃寺)跡」がある。現在は高麗川カントリークラブに造成されている。

現在の日野家
この「供養塔」は古道が分岐する地点にあり右が日野家入り口前を通り北に真直ぐ延びる。

右〈東)斜面を登れば(標高差30m)「高岡廃寺跡」にでる。

古道は北に延びるが高麗川カントリークラブのコースに寸断される。白銀平 富士山の東裾を通り大寺 毛呂本郷に通じている。大寺の瓦は高岡窯で焼かれこの道を辿ったのだろう。

一方の左の道は山道を800m地点で山にぶつかり その山をツズラオリに上ると滝沢の滝に通じている。
山道は西に折れ 山の西裾を迂回して毛呂山に通じてもいる。古道は多岐に別れていたのかもしれません。
古来より清流地区の人々は毛呂山との交流が密接です。その仲立ちとなっていたのがこの古道なのでしょう。

先ほどから 檜の先端に陣とってPHOTOを撮る私をじっと観察していたのが いつもの蒼鷺の父親である。この蒼鷺君は主に巾着田にいて 東の猿田(やえんだ)姥田(うばだ)女影辺りまで行動範囲をもつ 今日は北にのぼり清流川域を行動しているのだろう。「今日は 奥さんやお子さんは何処?」と聴いてみる。ゆうゆうと飛ぶ姿を自室の窓から良く見かけることができます。