三つ巴は渦か?


2011・12・27のBLOGで紹介いたしました鐙瓦(あぶみ・かわら軒丸瓦)瓦当部位「左三つ巴」です。布目瓦の次の世代 雲母粉(きらこ)を剥離材に使用した平安時代(794年〜1185又は1192年)以降の瓦です。巴も豊かな量になり「珠文」も蓮子(れんじ)かと見紛うほどの大きさであり 巴文と珠文の間に外周円を設け 江戸期に完成を見るデザインに近いものです。「大寺廃寺」もしくは「葛貫神社(つづらぬき)」のものでしょうか。僅かに「火を被った」焔痕が残る事から素直に判断すれば 室町時代に焼き討ちに遭って廃寺となった「大寺」と推察いたします。しかし異論は尽きません。
鐙瓦の「三つ巴」は武蔵国周辺の古代瓦の史料から転載いたしますと

巻きは左右あり 先頭の括れは無いものから始まり やや括れが明瞭になり始め 外周に「珠文」が小粒で現れます。

布目瓦と同時に現れております。
香川県の丸山窯跡の史料《註》が偶然手元にあり それによると宇瓦(のきかわら・軒平瓦)の瓦当にも出ます。

七連巴文と五連朋巴文の二通りがあります。

鐙瓦の巴が豊かな量を示しており 時代が下がる事を意味しています。しかし「珠文」はありません。丸山窯跡で焼いたこれらの瓦は12〜13世紀と推定されますが 施工された寺社は解明されていません。

そもそも巴文は何から端を発しているのか論議は尽きておりません。
この史料を見る限り「水の渦で火災を逃れる祈り」説が有力に思えます。他に彗星も同じように否定できるものではありません。現在 弓に使う「鞆(とも)」に形が酷似していてこの線を推す声が高いのは事実です。
興味ある推理が一つ浮かんできました。「大寺廃寺跡」の地主である「荻野家」の事ですが 現在の家紋は「違い鷹の羽」ですが そもそも「荻野家」の家紋は「左三つ巴紋」で現在もそのままの家が多いらしい事です。元はそうだった可能性が強いと言えましょう。


《註》平成8年に出された調査報告書で「丸山窯跡」の西2号 西5号の発掘調査に基づくものです。11世紀後半から12世紀後半と推定され 出土した瓦のうち「巴」に関するものは平安京内裏や寺院 鳥羽離宮のものと同類だが同笵(どうはん・同じ型)とは同定できないらしい。