江戸絵師 紫屋歌麿 中


喜多川歌麿は何時 何処で生まれたのかは解っていません。亡くなった時 53歳だったと言う事によれば宝暦三年1753年であるし この後数年間の諸説がある。先輩の瀬木慎一さんが一番遅い説だ。歌麿は北川家に生まれ 市太郎 勇助 信美 と名乗る。このうち勇助は後年呼ばれる事もある。
絵師の初号は豊章 歌麻呂 哥麿 秘画本には「うたまる」としるす。俳諧 狂歌の号もある。
歌麿は版元の蔦屋重三郎との関係が以降大きく左右する。
重三郎は丸山姓 寛延三年1750生まれ 喜多川氏の養子となる。その屋号が「蔦屋」である。

1779年ごろ歌麿は北川豊章の号で洒落本 黄表紙の挿絵を書いている。
重三郎とは狂歌で「吉原連」に属す。歌麿は蔦屋(耕書堂)の専属となり重三郎の庇護をうける。蜜月は永らえず ここで重大な事件が起こる。
寛政三年1791年 幕府の「寛政の改革」の矛先が出版に及び 蔦屋(耕書堂)が出版した山東京伝の洒落本 黄表紙が摘発され 京伝は50日の手鎖の刑 重三郎は「身上半減の過料」の刑。「身上半減の刑」とは財産の半分を召し上げるのだ。つまり土地 店の建物は半分に切り取る。版木も商品も蓄財も・・・・。
いわば世間の見せしめに重三郎は狙われた。幕府は重三郎の寿命までも半減したようだ。
歌麿の寛政三年は完全空白となります。仕事の形跡がありません。現在の栃木市に居りました。
最近肉筆画が2点発見され 歌麿自筆と認められました。旧家で見つかったその1点がこれです。

「女達磨図」 竹紙(中国の高級紙)に描かれています。これが翌年からの全く新しい作品のヒントになっています。つまり「美人大首絵」です。それまで女性を描く場合は全身図で描くのが常識でした。それを上半身のみを描き やや大きめに顔を描くのです。また背景など余計なものは一切描かずに女性の姿を浮き立たせました。これにより顔の表情を存分に描け 女性の心情までも現す事に成功した画期的な手法に到達いたしました。

「當時三美人」右:難波屋おたき(浅草髄身門前水茶屋看板娘)左:高島おひさ(両国薬研堀米沢町二丁目の公儀御用巻煎餅兼水茶屋の娘)中:富本豊雛(吉原玉村屋の芸者)
これが大評判を呼び一大ブームになる。つぎつぎ手を変え品を変え発売すれば売り切れアイドル化してゆきます。
危機感を強めた幕府は当然目の敵にし「女の名前を書く事を禁じます」
歌麿は負けていません。「判じ絵」と言う手法に変えて売り出します。
例えば↓ココ左の上部「菜っ葉が二環でなにわ矢で海の沖でおき田圃 つまり「なにわや おきた」となります。

このなぞなぞのような絵を「判じ絵」と申して以降 別歩きも起こります。しかしこれも禁止される憂き目になります。
整理しますと
寛政三年(1791年)重三郎・京伝摘発受刑 歌麿空白期(栃木にくだり肉筆画 美人大首絵構想得る?)
寛政四年(1792年)歌麿・重三郎企画「婦人相学十躰」町娘シリーズなど女大首絵がヒット。
寛政五年(1793年)幕府 町娘の名前記入を禁ず。歌麿 重三郎の傘下から離脱。北斎 勝川派破門。
寛政六年(1794年)5月から十ヶ月 写楽 活動期。
寛政七年(1795年)歌麿 町娘シリーズに「判じ絵」で対抗。
寛政八年(1796年)幕府「判じ絵」も禁止。歌麿は仕事など作業する女性を描く(最終は海女のヌードまで)

文化元年(1804年)歌麿「太閣五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)で逮捕 三ッ日入牢 五十日手鎖の刑
文化三年(1806年)九月 歌麿 衰退し入滅
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当時「秀吉」を扱うのは禁忌 また妻を大勢引き連れての花見遊興は将軍家斉の多妻を大いに揶揄するものとされた。
本来単行本2〜3冊になろうかとする内容です。次回は本題の「紫」に集中いたしまして結びます。