史料ー2


もうひとつの史料「古代のかわら」大川 清先生著。先生は国士舘大学教授を勤められ名誉教授になられた。後 窯業史博物館長も務められた。京都の古書店さんに見つけていただいた。

「巴文」を秀吉が採用しておりました。天正十四年1586年聚楽第(邸館)に表面を金箔で覆い使用しました。
外周の大きい径160mmですから「大寺廃寺」のものより40mm大きいことになります。しかし「巴文」のデザインは近似していて「珠文」も似ています。ただ「巴文」と「珠文」の間の環がありません。

京都市の六勝寺境内の「尊勝寺跡」の「巴文」鐙瓦(あぶみ・かわら)です。堀河天皇の発願により康和四年1101年に造立されました。径は135mmで「大寺廃寺」のものと近い大きさですがで全体も「巴文」もデザインは初期のものです。「珠文」もありません。

これは平安末期と推定される陶製の笵(はん・瓦の型)です。デザインはかなり近付いています。


これが「大寺廃寺」の「巴文鐙瓦」です。推定径120mm 雲母粉(きらこ)造りです。焔を被った痕跡が明瞭です。
少なくとも「大和朝廷」配下のデザインではない。年代はざっくりしていますが平安から鎌倉の時期 室町時代に焼き討ちに遭い 西側の安全地を求めって移築されたと推定します。

「大寺廃寺跡」は埼玉県指定文化財です。しかし担当は日高市です。寺域の一部は毛呂山町です。移築先は毛呂山町域です。「大寺廃寺」の「主」は誰か?これがこんごのKEYでしょう。現在「住吉四所神社」の前神は「葛貫神社」です。ここを中心とした域に「主」の居城(宮城)があった。まわりにぐるりと「宮」関連の地名が残る。「大寺廃寺」にかけて「兵」や「武器」に関連する地名が残る。しかも「大寺廃寺跡」から西方に「上大寺」「大寺」と地名は毛呂山町域に深く食い込んでおります。
私達の主張は「大寺廃寺跡」の所管を「毛呂山町」に移す事。です。一貫して「大寺廃寺は渡来人高麗王(若光王)の菩提寺である」などと国策の手先よろしく“あゆみ”をとめるジレンマから脱却することです。