田波目と多和目


日高市の東北部に「田波目」地区がある。石器時代の遺物はまだ出土していないが確実に石器時代から人々が住んで居る地区だ。坂戸市の南端と接していてそこは「多和目」という地名になる。

この2本の信号は100mと離れては居ない。
行政区を引いた時点で「田波目」の一部が坂戸に入ってしまったのだろう。むりむりそれらしい苦肉の策がみてとれる。「田波目遺跡」は広大でまだまだ未発掘の状態であってその全容は知れないが 私なりに分布調査は何度か行った。2年前に300mm程度の「石皿」らしい遺物を採取したら 越境していてその地点は「多和目」であったという笑えない事があった。「石皿」は坂戸市教育委員会で調査しているが 実際にはややこしいことが起こる。

今回は「多和目」の石橋供養塔のところに立てかけてある「板碑」が調査対象だ。

これが石橋供養塔です。その前側に立てかけて「板碑」があった。

「板碑」は表面も摩滅がひどく主尊と受花を確認するのがやっとです。

主尊は「バク」 お釈迦様です。

全長が710mm 幅 上部345mm下部380mm 厚40mm
このように方形に都合よく自然に割れることは極まれで 98%は人為的に割ったと見た方が正解。
おそらく二次使用された末に埋もれ 最近掘り出され 処置に困り供養塔のようなところに 預けたのであろう。
表面の摩滅は水によるもので 長期にわたって流水に晒されたようだ。水門などに用いられたのでしょうか。


付近には寺院は少なく墓地も点在している状況です。坂上共同墓地に調査に入った。

旧家S家の板碑が上部を欠いて建っている。
厚みが60mmで合わない様だ。

多和目地区は主尊が「バク」が多い。強い宗派があるのだろう。
いずれにしても坂戸市教育委員会に届けましょう。

【あずき・ちしき】
「板碑」は1200年の前半から1500年の半ば頃まで建造されました。「供養塔」というよりは「祈願塔」の意味合いが強い。村々に導師(村を廻る僧侶)が訪れ説法と共に建立を促した形跡がある。導師はまた石工と固定した関係を有したのか地区ごとに類似の板碑が確認できる。
①板碑は有効年数を決めて廃棄した。
②墓地が使用されなくなり置去りにされた。
③江戸期 徳川氏の入場に気遣い廃棄された。
などの説があり 埋蔵されたり二次使用されたりした経緯が覗われる。
板碑が平滑であること 石材としてはこの緑泥片岩は柔らかく加工がしやすいので二次使用にはもってこいなのだ。